私的・弁当箱考 第十二回「弁当箱のこれから」

2017.04.03

月イチ連載の第十二回。最終回です。

よくまあこんな身勝手な言い放題を1年も掲載されたものだと

Oh! Bento Laboさんには感謝です。

その暴言もこの回が留め。

「弁当箱のこれから」についての考えをブツブツと記します。

 

弁当箱は無くなるかも知れない

 

いきなりですが、あと100年弁当箱があるかどうか疑わしいなと。

ただ弁当は残るでしょう、ただしそれは「様式」としてだけ。

「買う弁当」だけが残るという意味です。

 

市販の弁当と家庭の弁当では、その成り立ちが違うもので、

買う弁当は外食のひとつなのに対して、家庭の弁当はまさに「家の味を持っていく」こと。

自宅で調理する人が減れば、わが家の味も減る。家庭の味が無くなれば、弁当箱の役割は無くなり、消えて当然の流れ。

通学する・出勤するというスタイルもあと何年存在するのかということも含めて

「暮らしかたの変化」に伴い、いつか電話ボックスのように「これ、使わなくなったな」という物体になるかと。

 

もうひとつ、道具への愛着心が消えていくから。

「安い」という感覚が鈍ってきているような気がするのです。

価値として安いと思う前に、値札の数字を重視する感覚。
生活の知恵というよりは、経済的に上手に立ち回ったことを、気持ちの高揚に置き換えて満足・自慢する風潮というか。

果ては、有り余るほどの物品を、安く賢く買っては断捨離という繰り返し。

その、買っては捨てるローテーションが快感になってしまっているように見えるのです。

そこには「ずっと使う」という心構えは希薄で、そこそこ使えて安ければいい、捨てれば良いという「建てては壊しの都市計画」の家庭版のような寂しさがあります。

 

例えば、キャラクターの付いた皿でお刺身を食べてもおかしいと思わない、そもそも買ってきたパックのまま食べてなんとも思わない感覚がそれです。

じわじわとそういうことに慣れてきてしまっている。

そしてその感覚でいくと、たとえ質が良くても、何年使うか分からない弁当箱なんかは不経済の典型と判断されてしまうでしょう。

無駄に高くて馬鹿らしい買い物になるから。

 

 

生き残る弁当箱

 

上の話からも、弁当箱の存在はどんどん生活から薄れていくでしょう。

歳をとったり、一人暮らしが進み調理が面倒になる人が増えれば、絶対数はそれに合わせて減っていくだろうし。今もコンビに行けば惣菜を買い求めるお年寄りが増えているなと感じます。

でもコンビニやスーパー、デパートであっても、そこにある弁当箱は食器ではなく保存容器。中身は均質化された退屈な味。だけどやっぱり早くて便利・簡単。

 

私は、それに抗いたい。

 

死ぬまで自分で調理を楽しみ、お気に入りの弁当箱に詰めてそれを愛でたい。

だからこそ先の話のような経済優先的な振る舞いはしたくない。

質素であっても、どこか品の良い献立を味わいたい。

 

でもそれには、ふたつの心構えで足りると考えています。

 

・自分(家族)の食べ物を、どこかの会社に任せない。

・家の味、それを食する時間の心地よさを大切にする。

 

この心構えが弁当づくりを支え、弁当箱をも守るのだと思います。

それと自分自身の心身も。